園田駅に近いとお買い物や病院・公共施設などが近くて便利です。しかし駅に近いと車や人が多くて少なからず騒がしく「落ち着いて癒される空間」になりにくいものです。小社アパートは園田の中を流れる一級河川藻川の堤防沿いにあって大阪梅田近いのに「快適な環境・空間」です。園田は、お部屋にお友達を呼びたくなるような街です。
一度ご見学ください。
お部屋探しは園田で
お部屋をお選びになる時 何を基準にお選びになりますか?やっぱり自然があるのが良いですね。それに会社の近いのが良いですね。ちょっとでも ながく寝ていたいのは当たり前のことです。自然があって それでいて大阪に近いそれは相反する事柄かもしれません。でも園田は阪急電車で四つ目の駅ですがコンクリート護岸されていない藻川があります。大阪に一番近い自然のある場所です。
園田の地形
園田は大阪府大阪市の隣の尼崎市の東北の端にあります。地形的には園田は猪名川ので三角州の地帯です。一番東は猪名川で豊中に隣接しています。中ほどに藻川があります。西の端は塚口川という小河川を隔てて同じ尼崎市内の塚口になります。南北には北側には伊丹市があり南は同じ尼崎市内の小田になります。園田は海抜3mから5mの平坦な地形です。唯一の坂は藻川を超えるための道にあります。自転車で走ってもスイスイの心地よさやっぱり平坦な土地は良いですね。
園田には自然がいっぱい
園田には大阪に近い自然がいっぱいの園田です。園田一周の遊歩道もあります。
園田の由来
園田は猪名川のデルタ地帯として出来上がりました。
水が豊かな園田は弥生時代より農業を営んでいた豊穣な土地です。
弥生時代(2300-1700年前)には今の園田の北部の田能には集落(現代の田能遺跡)があって水田や竪穴式住居・高床式の倉庫などがあり、銀の腕輪をした人物の土葬見つかっています。
弥生時代から海が後退を始め多くの陸地が形成されます。
全国に国分寺が建立された頃(西暦600年頃)には今の園田の北部・藻川の西岸・現在の尼崎市猪名寺「猪名寺廃寺跡」に法隆寺と同規模の猪名寺が建立されています。
平安時代には園田駅前から隣の豊中の庄内に至るまで大きな荘園が形成されました。今は豊中かとの境界にある猪名川の橋の名前として残っている椋橋庄(くらはしのしょう)と呼ばれ豊かさ故に「承久の乱」の原因となります。
江戸時代には干拓や開墾が盛んに行われ天領として園田のすべてが水田となります。
江戸時代の終わりには水が豊かな土地で圃場整備も済んで整然とした水田が並んでいました。
大正時代になると大阪の中心地の堂島や大阪の北部の淀川の西岸の十三に住んでいたお金持ちが住環境の悪化から園田に新しい住宅地ができると移り住んできます。
戦後猪名川の氾濫を防ぐために園田の西を流れる猪名川と園田の真ん中を流れるその支流になる藻川が大きく河川改修されます。蛇行した猪名川は改修され三日月湖として今の猪名川自然林が作られます。
一方藻川は幅広くなり河川は広く立派になります。
「園田」の名所旧跡
近松門左衛門墓所
「園田」の名前の由来
園田の地名は明治22年(1889年)町村制の成立の時初めて登場します。それまでの村を大字として800戸程度まとめて村とします。園田の由来は古代、現尼崎市域から伊丹・川西・宝塚市域などにかけて立地したと言われる散在荘園「橘御園〔たちばなのみその〕」の名前からから村名が付けられたと伝えられています。「たちばなのみその」の前の「たちばな」を立花村に、少しわかりにくいですが「みその」を園田村にしたそうです。成立当時の人口は4000人強であったと言われています。
現代の園田
現代の園田は大正時代に阪急電車が造成した区画がそのまま残る道が広い街です。昭和50年頃阪急電車が高架になりそれと同時に大阪の内環状線と国道2号線を結ぶ主要道の園田橋線が開通して駅前やその周辺が整備されました。スーパーマーケットや病院・各種医院・市役所の出張所・交番・コンビニ・マクドナルドなどがあって便利です。
園田の中のアパートの位置
園田の東部猪名川と藻川の間の島のような地域にあります。戦前は「島之内」と呼ばれていました。小社アパートは園田駅から線路沿いに神戸の方面に向かって歩きます。前出の園田橋線の大通りを越えて桜並木を進むと小社賃貸アパートに到着します。「島之内」の南西の端です。川幅が100mある一級河川藻川の東岸にあります。緑あふれる堤防が敷地内道路を隔ててあります。
駅からアパートまでの桜並木(桜が満開の時の写真)
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