校庭を前面掘り返して
遺跡調査をしていた園和小学校は
だだ今
大建築工事をしています。
校庭すべてを使って
校舎を新築しているようです。
恐ろしいほどの
大きさです。
現在の旧校舎が
耐震基準に満たないので
建て替えだそうです。
新校舎が出来た後
現在校舎を壊すまでは
園和小学校に
校庭はありません。
常識を破った広い・明るい・高い・上りやすいロフト付賃貸は快適な友達を呼びたくなるお部屋です。
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661-0971 兵庫県尼崎市瓦宮2-18-15 杉原土地有限会社
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校庭を前面掘り返して
遺跡調査をしていた園和小学校は
だだ今
大建築工事をしています。
校庭すべてを使って
校舎を新築しているようです。
恐ろしいほどの
大きさです。
現在の旧校舎が
耐震基準に満たないので
建て替えだそうです。
新校舎が出来た後
現在校舎を壊すまでは
園和小学校に
校庭はありません。
先日
園和小学校前を
通ったところ
まだまだ
発掘調査をしているみたいでしたので
写真を
パチッ
前の写真と
見比べると
土の山が
後方体育館側東に移動していました。
体育館側の発掘が終わったので
土を
体育館側に回し
道路側を
発掘しているのではないかと
思います。
工期は
来年の
3月までですので
まだまだ続くのかもしれません。
園和小学校は120年の歴史のある
小学校です。
毎年
運動会をしていたと思いますが
今年は
校庭では
できません。
遺跡には
勝てません。
話変わって
写真では
わかりづらいですが
ベルトコンベアーを
使っています。
手で掘った土を
運ばせるのです。
建築重機が
なかった頃には
建設現場でもよく使っていたのに
懐かしいです。
園田には
有名な田能遺跡をはじめ
イイダコの蛸壺が多数発見された東園田遺跡など
いっぱいあるのですが
園田の駅前の
園和小学校にも
遺跡があるみたいです。
先日
阪急園田駅前にある
園和小学校の前を通ると
校庭に
土の山が出来ていました。
校門に
標識があって
深田遺跡調査と書かれていました。
弥生時代の遺跡らしいのですが
発掘調査しているみたいです。
園和小学校は
ただ今校庭は
使えない状態です。
私の生まれた家の前の道は
旧街道 有馬道です。
有馬道は
日本三大名泉有馬温泉へ
大阪から行く道です。
大阪に
難波の宮があった頃に
作られたかもしれません。
古くは
行幸道で
織田信長は
有岡城(伊丹)に軍を進めた時に使ったといわれます。
江戸時代には
能勢の妙見山詣での
参詣客
江戸末期には
伊能忠敬が地図作りに
通ったそうです。
そんな由緒のある
有馬道の
道標が
写真です。
明治の初めに作られたようですが
大阪から
神崎の渡しでわたったところにありました。
右に行くと
有馬道本道で
途中から
妙見山の方へ通じています。
左に行くと
有馬道の間道で
後世に造られた道です。
有馬へは
近道になっていて
途中には
近松門左衛門の墓所のある
広済寺があります。
妙見宮としての参詣客も
多かったと
言われています。
いにしえの 猪名の笹原
春来ると
黄色一面 菜の花畑
_________________________________
お粗末
昔は
荒涼たる
笹原でしたが
今は
一面黄色になる菜の花畑になっています。
もっと言えば
この菜の花は
外来種ですので
いにしえの古代には
絶対に黄色ではなかったのです。
私の住んでいる街は
古来より
人が住んでいました。
百人一首の和歌にも
詠まれている
猪名の笹原は当地のことです。
淋しい荒れ果て土地のいう
枕詞としての
当地ですが
実際
ジェーン台風で
藻川の河川改修がされるまでは
河川敷は
笹原でした。
しかし昨今は
菜の花畑に
なっています。
菜の花が
高く売れる
商品なら
当地は
一攫千金の
場所ですよね。
でも
、、、、、、、、
園田の名所旧跡の中で
日本中で有名なのが近松門左衛門のお墓です。
今話題の人形浄瑠璃や歌舞伎の作家として有名です。
人形浄瑠璃自体私は見たことがありませんが
テレビで見る限りでは
セリフやナレーションをする太夫(たゆう)
三味線
三人で一体の人形を扱う人形遣いの
で行われます。
歌舞伎も
私は見たことがありません。
エンターテイメント全く縁がないのが私ですが
近松門左衛門の名前は
よく知っています。
近松門左衛門さんの銅像を見るとなかなか良い顔していますよね。
園田の田能にある田能遺跡には
高床式倉庫が再現されています。
写真の様ですが
四周見回っても
入り口がないのです。
ハシゴはあるのに
入り口がありません。
どこから入ったのでしょうか。
以下は私の想像です。
____________________________
倉庫には
農産物の収穫物を
保存するためのものだと思います。
たぶん
弥生時代ですので
お米ではないかと思います。
当時は
適切な袋がないので
バラ置きしていたのではないかと思います。
バラ置きのため
妻壁の3角の部分から入れて
プールのように蓄えていたのだと思います。
ネズミの侵入を防ぐような
扉がなかったので
いつも
壁を作って
塞いでいたのでしょう。
そうなんでしょうか。
竪穴式住居は
住みやすいか
住みにくいかは
私にはわかりません。
でも
弥生時代の人は
高床式倉庫に習って
住居も
作る能力もあったのに
あえて
竪穴式住居に住んだのは
快適だったためではないかと
思います。
実際に
竪穴式住居に入ってみるとわかりますが
夏は涼しいです。
でも
梅雨時は
きっとじめじめしたいたのではないかと思います。
弥生時代には
梅雨がなかったのかと
思うくらいです。
私は
何もわかりませんが
たぶん
竪穴式住居は当時の家として
最善だったのでしょう。
竪穴式住居は
作りやすい住居です。
いろんな作り方がありますが、
私が習った作り方は
まず浸水の恐れのない高台のところで
深さ30cmから50cm掘ります。
掘った土は
周りに土手のように盛り上げます。
掘った穴の中に
4本の柱を立てます。
その柱先をを繋ぐように
4本の梁を渡します。
その梁に向かって
周囲の土手より
斜めに木を渡します。
斜めにした木の先端同士が
繋ぎます。
斜めに渡しかけた木に
横に繋ぐように木を渡し掛けます。
この斜めにした木が
筋交いになって
台風などにも耐えられる
家になっていると思います。
横に渡した木に
ススキ(茅)や芦などのような長い植物で
葺いていきます。
ススキでふけば茅葺き
芦でふけば芦葺き・芦屋です。
今でも
藻川の河川敷には
ススキが
私の背丈よりも長く
繁茂していますので
田能遺跡では
茅葺きであったのではないかと思います。
竪穴式住居の屋根には
一部妻壁を作って
そこを
開けて
換気口とします。
中で
火を使った時の
煙抜けです。
また煙で
茅が燻され
腐りにくくなって長持ちします。
田能遺跡の
竪穴式住居に
夏入ると
ヒヤッと
涼しいです。
冬場は
火がないと
すきま風で
寒いところです。
だからといって
火を焚くと
きっと
竪穴式住居の内部に
煙が充満して
あまり快適ではなかったのではないかと
思います。
写真の
住居は
方形竪穴式住居だそうです。
田能遺跡は
猪名川の自然堤防の上にあって
浸水の心配が少なかったのではないかと思います。
また
田能遺跡に人が住んでいた時は
縄文の海浸と言って
地球が温暖化しており
今より暖かかったため
冬の寒さより
夏の暑さを避けるため
半地下式にしたものが
快適だったかもしれません。
付け加えますが
写真の竪穴式住居には
入り口のところに
注意書きがあって
「火気厳禁・禁煙」
と書かれています。
燃えやすい茅葺きですので
注意しないといけませんよね。
注意書きには
もうひとつあって
「カヤを抜かないで下さい。」とも
書かれていました。
何となく抜きたくなるようですが
抜かないで下さい。
あとから入れることは
できませんので。
それから
理由は私にはわかりませんが
カヤ・アシは
必ず根本の方を下にして
葺くそうです。
園田の名所旧跡の中で 一番古いのは 田能遺跡です。 田能遺跡 田能遺跡は尼崎市田能にあります。 江戸時代の地名でいえば 摂津国川辺郡田能村(せっつのくにかわべごおりたのうむら) の猪名川を隔てた向こう岸にあります 私が中学生だった 昭和40年に 工業用水道の工事の際 土器のかけらが多数出土下のが始まりです。 竪穴式住居跡 高床式倉庫跡 お墓 白銅の腕輪をした遺骨 壺に入れられた遺骨 木棺 銅剣の鋳型 碧玉製管玉(青色の宝石で出来た管状のものをつなげたもの) 弥生式土器多数 石器 水田の跡 などが発見されました。 私も中学生の時 全く役に立ちませんでしたが 発掘のお手伝いをしたことがあります。 田んぼを1mばかし掘ると 弥生時代(今から2200年前頃)の 地層が現れ そこかしこには 土器が出て 慎重に掘ると 柱の穴が ボコボコ あいていました。 遺跡を調査したあとは 埋めて その上に 田能資料館をはじめ 竪穴式住居・ 高床式倉庫が 復元されています。 田能資料館は無料です。 私も 何度となく 行っています。 竪穴式住居は 夏涼しいですが 暗くて ほんの少しだけ怖いです。 尼崎市立田能資料館 〒661-0951 兵庫県尼崎市田能6丁目5番1号 尼崎市立田能資料館 電話番号06-6492-1777